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マタニティ&育児ライフ

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いろいろ

今日はちょっとぽけーっとしている日。

ガン介さんは、その後、自分がいいなと思っている名前を出してきてくれたり、自分が好きな漢字とかを出してくれたりしている。ガン介さんがいいなと思っていた名前は、結局姓名判断の結果がダメダメだということがわかり却下になった(と思う)ので、書いちゃうけど「泰斗(たいと)」というもの。ナンデスカ、この思いっきり流行りな留め字は?と一瞬思ったけれど、「泰」という字はわたしも大好きなので、ほほうと思ったり。でも、実は一番のポイントは、これって国語辞典にもちゃんと載っている名詞なんですって。簡単に言うと、その道を極めた人、みたいな意味なんです。こゆとこ、ガン介さんの博識が出るのでした。あたしゃ、もちろん、そんな言葉知らんぽん。でも、なんか嬉しかった。こういう風に名前を付けたら、それってすごく我が家っぽい気がするから。「おとーさんがこーいう言葉を知っていて、それで付けたのよ」っていうのが、なんかいい。ま、却下になっちゃったけど。英単語のtightを連想させるのも、ちょこっとネックでした。あと、苗字とのバランスも(知ってる人だけ笑って下さい)。

姓名判断って、ほんと、最初は全然気にしないつもりだったけれど、姓名判断の説明とか読んでたら、やっぱり悪いのよりは良いのにしてあげたいなーと思うようになりました。名前っていうのはその人が人生を歩んでいくときに乗って行く車のようなもので、姓名判断の悪い名前で人生を生きることは、ポンコツな車を一生懸命乗りこなしていくような苦労を伴うことになるのだという話でした。なるほどなーと思いました。
また、名前による運気のお陰で遭わずに済んでいる不運というのは計り知れないものがあるとか。確かに人は不運な目に遭うと、何か原因があるのではないかとアレコレ気にするけれど、”不運な目に遭わなかった”ことには、そもそも気付かない。信仰の話でも似たようなことがあるわけで、誰かが祈ってくれているお陰で天使の守りがある・・ということは、本人は気付きにくい。
いわしの頭も信心から・・じゃないけれど、我が子の命と生活を守ろうと思ったら、できることは何でもしてあげたいものです。ちょっと苦労して姓名判断をチェックして良い画数の名前を選んであげて幸運を祈る・・・結局、祈りの一態様なのですよね。
土台あてずっぽうな名付けでなんだか途方にくれそうになっていたわたしなのだけど、むしろ、合う画数の漢字をチョイスして名前を作ってあげるのは、それだけで気分は良いわけだし、納得のいく名付けになるかもしれないなーと、今はそう思います。

「我が子」という生き物と一緒に生きるって・・なんか、改めて考えると、凄いことなんだと思います。複雑怪奇というか。今まで自分の人生というものにしか責任を負っていなかったのに、これからは自分の人生を生きると同時に子供の人生の責任も負っていく。自分だけが幸せじゃいけない。かといって自分が不幸でも、始まらない。子供を支えるパワーも養えないのでNG。ただひたすらに子供の幸せのために生きているというと聞こえはいいけれど、実はそんなの現実的な話じゃない。特にわたしのような半端で欠陥の多い人間に、そんな芸当はムリというもの。気持ちだけは持っていたいけれど、気持ちだけじゃおっつかないということを肝に銘じておかないと。(気持ちだけその気充分でも、実は行いが伴っていなかったなんて愚かしい悲劇は母だけにしてもらいたい。) また、子供は親の力だけで育つものでも、生きるものでもないのだということも。子離れ親離れの時期がいつになるかは人それぞれだろうけれど、できるだけ適切な時期に、ちゃんと「送り出す」。これが親の務めであって、そこまでは踏ん張り時なのだろうと思います。それも、一気に全部送り出すというものでもなく、徐々に社会に出してやるわけだし。

くどいぐらいに義妹の話ばかりだが、義妹は自分を追いすがることもなく毎日ニコニコと登園する息子で寂しいという話を止めようとしない。わたしは、無事に巣立っていこうとしている我が子の姿を喜べないのが不思議に思う。喜んでやるべきだと主張するのはちょっと固すぎるかもしれないけれど、彼女の母親観っていうのは一体何なのだろうかな?とちょっと心配になる。いついかなるときも優しさと愛情を注いで・・みたいなことをモットーにしているとかつて聞いた覚えがあるけれど、何だかそういう”寂しい”という感情を聞くと、見返りの愛を求めている点で、多分に恋愛感情との混同があるのではないかと思ってしまう。理屈抜きにして感じるのは、「なんだかオメデタイ話だなー」ということ。彼女、結局、子育てにおいてはかなり幸せ・・というか恵まれているんだと思います。子育てのやり方の点で夫と噛み合っていない不幸は散々愚痴っているけれど(そして義母もそれを哀れんであの子は子育てにとても苦労していて可哀相だと言っている)、子供そのものには手を焼くこともなく、彼女流の育て方でどうやらそこそこ上手い具合に健全に育っている様子なのだ。もちろん、わたしは、手を焼いていろいろ試行錯誤に苦しんで子育てしているママをそのまま不幸だとは捉えない。手間隙の量だけで幸不幸が決まるのだったら、障害や病気を持った子の母親はその瞬間から不幸のレッテルが貼られたことになる、それはおかしい。要するに、義妹のようなケースは、単にオメデタイのだと思う。見返りの有無に頓着できるだけの余裕があるのだ。理想の親子像の実現の不備なんかをチェックしていられるだけの余裕があるのだ。おそらくそういうものは子供が赤ん坊のときに崩れ去るものなのだと思うのだけど。もともとチヤホヤされたがりなのに夫はチヤホヤ愛してくれず、せめて息子に期待するというのは、ちょっと想像がつくし気の毒かもとも思うけれども、でも、それでOKなんじゃん?とまでは言えないような。少なくとも一過性の擬似恋愛で済んでしまうのでなければ、追い追いいろいろ、子においても、本人においても、弊害が出てくるだろうから。彼女は自分の心情を、母親ならではのものだと信じている。一過性で終わることなのかどうかは、ちょっと怪しい。

人間関係って、仮にそれが男女の恋愛関係だとしても、見返りの愛を求めるというのは、単にそうなりがちだという話なだけで、それが理想的なわけではない。社会の一員として集団の中で生きる以上、大人は、やはりもらう愛より与える愛の方を基盤として生きる術を身につけなくては、やはり幸せには生きていけないのだと思う。人の親となった者は、特にそういうステージに進まされた存在なのだと思う。
でも、愛を与えるって一体どんな風にするのだろう・・・ちょっとオタついているわたしがいる。何故オタついてしまうのかっていう原因の点は最近ちょっと究明された。でも、やっぱり肝心なのは、どうやって愛するかという実践面だ。もうすぐくるりんはやってきて、人生をスタートさせるのだ。どんな困難な場面が待ち受けていることやら・・わたしはそれに勇猛果敢に取り組んで・・いきたい気持ちはマンマンだけど、イマイチ自信はない。
うーん・・うーん・・・本当にもう、祈ってお助け下さいとすがるより他ない感じなのです。

全然関係ない話だけど、今日、あるROMってるブログを読んでいて、そこでの話題がちょっと気になって(好奇心程度の話)、そこのブログに書かれていた言葉をそのままキーワードにして検索してみたら、そのブロガーさんの裏ブログが見つかってしまいました。部分的に同じ文面をアップしていたので拾えたというわけです。
裏ブログに描かれている彼女の心の日常。
・・・人間って、いろいろだ。
いろいろな生き方をしている。
「しあわせな人」というのを見るのは稀だ。
それでも、我が子は幸せににしてあげたいと思う。
自信が持てないのは当たり前・・・なのかも。
でも、諦めるわけにはいかない。このことは、死ぬまで。子が親の手を離れても、心は続くだろう。
愛というのは、難しい。
でも、祈るということは、「諦めない」ということなのだと、今わかった。
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2006.7.13、男の子を産みました。
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